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八幡木逆修塔

 

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八幡木逆修塔(はちまんぎぎゃくしゅうとう)

市史跡

平成4年7月25日指定

県道望月線の本下之城字上村の中央から鹿曲川の方向へ下っていくと、字中村・八幡木と続いています。八幡木に入ったところ、道ばたの木立のもとに小さな祠があります。そのまわりには、石造の五輪塔や宝篋印塔の崩れた部材(残欠)が集められています。その中に特に大きく目につく宝篋印塔の基礎があります。これには「逆修 石塔 康応元年 十二月十三日」と横に4行に並べて陰刻されたその下に「一結衆」とも見えます。
「逆修」とは生前に死後の冥福を修する(祈る)こと、康応元年(1389)は南北朝時代の末期です。そしてこの塔は「一結衆」つまり同じ考えを持つ仲間、一党により造立されたということになります。
さて、下之城とは、望月城からみて下流の方にある支城としての名称です。しかし、この下之城こそが中世望月氏が居館を構えていた元々の本拠地であり、望月氏が今の望月に本拠を移したのは、戦国時代になってからだったことが明らかになりつつあります。(『北御牧村誌』『望月町誌』)。したがって、南北朝時代初期、建武2年(1335)の中先代の乱の折、中先代北条時行の与党であったため守護小笠原軍の攻撃を受け、城郭を破却されたという望月城も、この下之城のことと考えられます。
手痛い打撃をうけたとみられる望月氏の動静は、これ以降100年程も知られなくなります。その中で、本下之城に残るこの宝篋印塔の基礎の銘文、特に「一結衆」からは、当時の望月氏一族や家臣団が、従来からの望月氏の本拠地にあって活動していた様子の一端を、うかがうことができるとも言えるでしょう。なお「一結衆」の関係では、傍陽(上田市真田町)実相院の貞治6年(1367)の宝篋印塔には「一結施衆」、戸倉(千曲市)佐良志奈神社の永和2
(1376)の宝篋印塔には「契約□衆四十五人」と彫られています。
何れも八幡木のこれと同じく南北朝期のものですが、やはり武士団による造立とみられています。

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所有者 個人

所在地 東御市下之城中村526

署名

文化・スポーツ振興課文化振興係(文化財)
電話:0268-75-2717 | ファクシミリ:0268-63-5431
メール:bunka-sports@city.tomi.nagano.jp

  更新日:2023年3月31日

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