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御小嬢穴

 

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御小嬢穴(おこじょうあな)

市史跡

昭和52年11月10日指定

戦国時代、戦いに敗れた武将の息女が、腰元と二人でこの穴に隠れ住んだといわれています。
また昔、その岩穴にお孝という女の人が、下女と住みついていたので「お孝女穴」という人や、後にお乞食が住んでいたので「お乞食穴」とよばれたりしたそうです。
現在穴の中には、二つの石像があります。一体には「寛政五丑年正月二十六日」、他の一体には、「嘉永戊申年正月 日」と記されています。これは言い伝えでありますので、たしかな証拠は穴の中に存置する石像のみです。したがって、寛政五年は1793年、嘉永元年は1848年に、それぞれ建立されたことになります。
前者は18世紀の後半、後者は19世紀のなかばということになりますが、その当時の世相はどんな状態だったでしょうか。洞穴にあらたまって、石像を安置しなければならないような、社会的な不安を推量するに、17~18世紀は、浅間山の火山活動が活発で、天明3年(1783)にみられるような、大噴火がありました。八重原諏訪神社の境内にも、天明3年銘の石の塔がいくつかみられます。浅間山噴火の主なものを拾うと、宝永・享保・宝暦の各年間のものがあります。
地震についても、弘化4年(1847)の善光寺地震をはじめ、元和・寛永・宝永・享保・宝暦等この地域に関係するものが目にとまります。
その他、水害(寛保を代表するその他)・干害(明和他)・降雹・降霜・降雨等天候不順が続いて、農作物が不作で、享保・天明・天保等の、大飢餓となって、悲惨の状況が続きました。これらを案ずる人々は、諸物の祟(たたり)を恐れて、祈祷へと発展した証左が石碑(いしふみ)だったのではないでしょうか。

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所有者 個人

所在地 東御市下之城梨の木林1414-1

署名

文化・スポーツ振興課文化振興係(文化財)
電話:0268-75-2717 | ファクシミリ:0268-63-5431
メール:bunka-sports@city.tomi.nagano.jp

  更新日:2023年3月31日

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