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外山城跡

 

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外山城跡(とやまじょうあと)

市史跡

昭和42年12月11日指定

外山城跡は、羽毛山集落南方の崖の嶺に位置しています。城跡の東側は、南北に流れる千曲川を望む極めて急傾斜の断崖になっています。
この集落の東端から急坂を登ると、主郭から北側に連続して7段の曲輪が構築されています。主郭(しゅかく)と二の曲輪(くるわ)の段差は僅かに1m程ですが、二の曲輪は西側にやや傾斜し主郭よりも広い面積を有しており、機能的に有用な場所を確保しています。そこから北への急斜面には、小規模な郭が連続して構築されています。戦いの時に立てこもる主郭や曲輪は、東側の断崖に端を発し、南側にかけてL字状の形態を成しています。
主郭の南側には、烽火台(のろしだい)と伝う高さ約6mの上部平坦で円錐状の土塁が存在しています。 烽火台であったかどうかは歴史的には現在不明です。この土塁の南に接して、東西に空堀が構築されています。現状で堀切部より1m以上の深さがあるので、さらに規模は大きなものと思われます。南側からの進入に対して、主郭を防御するための重要な役割を果たしていたものと推察されます。空堀の南側は、郭状の比較的平坦で広い面が存在し、再び台地への登り斜面となっています。城跡の西側には、城の入り口とも思われる木戸坂という地名や、備中・備中山など武将を想起させる地名が存在しています。
この城を誰が支配していたかについては、明治12年の「北御牧村誌」にその内容が記述されています。「高白斎記」や「生島足島神社起請文」「蓮華定院文書」などに登場する人物や歴史的経過から、羽毛山は、天文22年(1553)以前は中丸子の領主依田春賢(よだはるかた)の所領、そして武田氏滅亡後の天正10年(1582)ころ以降は「依田記」に十郎左衛門(じゅうろうざえもん)が依田信蕃(のぶしげ)の家臣であったことが記されていますので、芦田・春日を本拠とした依田信蕃系の領主だったと推定されています。しかし、武田信玄が羽毛山などを取り上げた天文22年(1553)以後、天正10年(1582)までの武田氏領国時代のおよそ30年間、誰の所領であったか不明ですが、ちょうどこの時期に望月氏に近い人物として現れるのが依田新左衛門(しんざえもん)です。
外山城がこれらの時期あるいは人物によって築城されたかを特定することはできませんが、戦国時代末期の重要な拠点であったことには違いありません。

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所有者 東御市

所在地 東御市八重原横山3166

署名

文化・スポーツ振興課文化振興係(文化財)
電話:0268-75-2717 | ファクシミリ:0268-63-5431
メール:bunka-sports@city.tomi.nagano.jp

  更新日:2023年3月31日

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