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八重原堰・黒沢嘉兵衛関連史跡

 

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八重原堰・黒沢嘉兵衛関連史跡(やえはらせぎ・くろさわかへいかんれんしせき)

市史跡

昭和42年12月11日指定

昭和59年4月1日追加指定

1 黒沢嘉兵衛について
嘉兵衛の祖父は武田氏に仕えて、佐久御所平(現川上村)の領地を持っていました。父は小諸城主松平(芦田・依田)氏に仕えましたが、城主の所替えによって上州藤岡に住みました。嘉兵衛は慶長17年(1612)藤岡に生まれ、長じて小諸城主青山氏の家臣となり、承応2年(1653)命により八重原台地へ和美堰(わみせぎ)の通水をなしとげました。さらに水源を別の地に求め、幾多の苦難をのりこえて、 寛文2年(1662)現在の嶽堰を完成して、八重原開拓の礎となりました。さらに藤原田を初め、近郷にも分水して新田開発につくし、元禄4年(1691)の初冬この地に永眠しました。昭和3年(1928)11月10日、昭和天皇即位の大典により従五位を賞敍されました。

2 八重原堰について
八重原台地は江戸時代初期すでに周辺の住民が天水によって米作をしていました。当時開発の波にのって、小諸城主青山因幡守宗俊は、家臣緒方兵右衛門長正に、和美堰の開発を命じましたが、中途でだめになり、その跡を嘉兵衛が継続して、承応2年(1653)に通水しました(約13.9㎞)。しかしこの水だけでは十分でなかったので、大門川へ落ちる水を取水する大門堰の開削を計画しました。途中崖が多く、その上長距離のため難儀して、莫大な私費と御納戸金、そして人足を投じて、6年目の万治2年(1659)にようやく完成しました。しかしながら「一度ならず引き届きならず候」(古文書)とあり、そこで嘉兵衛は、嫡男黒沢平太夫(藤原田在住)に「水割の証文」を提出して、寛文2年(1662)に水路延長55㎞余が完成 しました。

3 黒沢家門について
絵に見る四脚櫓門は、嘉永年間(1848~1853)に造られたもので、黒沢家は五反歩余の宅地に母屋を中心に土居をめぐらし幾棟も並んでいました。門を入ると井戸や大きな植えこみが続き殿の通用門も窺われ、遥か彼方には、嘉兵衛の脳裡から霞むことのなかった女の神山(蓼科山)の容姿が写し出されています。母屋には、間口2間の式台が備わり格式の高さを表していました。いずれも近年老朽化が進み、村では史跡として保存するため昭和59年(1984)改築しました。

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所有者 八重原土地改良区・個人

所在地 東御市八重原全域 八重原3267-1他

署名

文化・スポーツ振興課文化振興係(文化財)
電話:0268-75-2717 | ファクシミリ:0268-63-5431
メール:bunka-sports@city.tomi.nagano.jp

  更新日:2023年3月31日

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