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鍋蓋砦跡

 

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鍋蓋砦跡(なべふたとりであと)

市史跡

昭和42年12月11日指定

下八重原地籍の字鍋蓋に、通称「鍋蓋砦跡(なべふたとりであと)」または「鍋蓋曲輪(なべふたくるわ)」と呼ばれているところがあります。東御市の史跡に指定されていますので、本来ですと城の「砦・曲輪」に関係する遺構が指定理由として存在していなければならないわけですが、自然地形が鍋の蓋に似ていることや、伝承が幾つか残されていること以外には何もわかっていません。しかし、この地形ならではの地割構造や伝承から読み取る当時の歴史的経緯は重要です。
字鍋蓋の地は、平面が円形で、微高地となっています。周辺地域を含め土地利用の形状をみると、周回する道路が存在し、そこを起点にして農道が放射状に存在しています。鍋蓋地籍を中心に据え、かなり意識して設定していることがわかります。地割はその地域の社会構造の一端を表現しているところから、その頃の時代的背景が分かれば、この地籍の歴史的経緯がより明確になってくるものと思われます。
つぎに重要なことは、今に残されてきた伝承です。それが事実であるかないかは別にして、伝承には先祖の思いや語りが凝縮されていますので、中味をいかに読み取っていくかが大切です。
明治12年の『八重原村誌』には、「鍋蓋砦跡」と題し、「慶長中、上田の役に東軍兵糧を炊きしかまどの跡であり、よりて鍋蓋と字す」とあります。また『北佐久郡志』には、「天正13年(1585)徳川軍上田攻めの際、真田氏の属城であった丸子城の丸子三左衛門を攻めるため、 徳川軍は鍋蓋を中心とする八重原に兵を終結して陣営を張った」とあります。滞陣した軍勢が出立の際、鍋蓋を置き忘れたところから地名がついたともいい、武田軍と徳川軍のふたつの伝承があります。また、「海野合戦の際、武田信玄がここに陣を張って、戦役に備えた」とも伝えられています。いずれも戦国時代の伝承が継承されてきたものといえます。
鍋蓋地籍の中央には、石祠が存在し、信玄を祭ったものとの伝承があります。また、入り口の大石は駒石といい、信玄の乗馬の蹄跡が残っていると伝えられ、今でも毎年4月に関係者によって祭事が執り行われています。
鍋蓋は、史跡以上にむしろ民俗学的な意味で重要であるといえます。

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所有者 個人

所在地 東御市八重原鍋蓋2264-3

署名

文化・スポーツ振興課文化振興係(文化財)
電話:0268-75-2717 | ファクシミリ:0268-63-5431
メール:bunka-sports@city.tomi.nagano.jp

  更新日:2023年3月31日

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